jagatsimhadeva (人名) 中世前期、三大勢力分立時代、ティルフット王国ハラシンハ・デーヴァ王の王子。 マッラ王統に引き継がれた血脈 ハラシンハ王の遺児ジャガットシンハ・デーヴァはルドラ・マッラの一人娘ナーヤカデーヴィーの夫ハリチャンドラ・デーヴァが毒殺された後、未亡人の彼女を内妃として娘ラージャッラデーヴィーを儲けた。この娘、つまりルドラ・マッラの孫娘はスティティ・マッラを南方から迎えて結婚し、三人の王子を儲けて、マッラ王統が保たれたと同時に、ジャガットシンハを通じてティルフット王統の血脈も伝えられた。227年間脈々と続いたティルフット王朝は、マッラ王朝に吸収されて消え去った。(出典:ネパール全史、佐伯和彦) 経過 ナーヤカデーヴィーの夫ハリチャンドラが毒殺されたあと、彼の弟ゴーパーラチャンドラ・デーヴァがバクタプルに入場し、政情の混乱に乗じてパタンに進出したが、これを知ったデーヴァラデーヴィーの子ジャガットシンハ・デーヴァは1337年にアバヤ・ラーマ、タイタの支援を受けてパタンに入り、ゴーパーラチャンドラを追放した。 1338年には、デーヴァラデーヴィーはマハータのアネーカ・ラーマと謀り、アバヤ・ラーマとタイタ父子を褒章を与えるという口実で呼び出して殺害した。彼らの死に対して「民衆はこぞって悲嘆に暮れた」とゴーパーラ譜に述べられており、世論は彼ら三人を支持していた。 1338年には、デーヴァラデーヴィーはマハータのアネーカ・ラーマと謀り、アバヤ・ラーマとタイタ父子を褒章を与えるという口実で呼び出して殺害した。彼らの死に対して「民衆はこぞって悲嘆に暮れた」とゴーパーラ譜に述べられており、世論は彼ら三人を支持していた。殺された3人は恐らくティルフット王統の嫡流とはいえマッラ王家の血を引いていないジャガットシンハがナーヤカデーヴィーの内縁の夫というだけでネパールの統治者になることに不同意だったのであろう。 このあとジャガットシンハはしばらく統治するが、彼自身も何らかの理由で投獄されて、ふたたび表舞台に立つことはなかった。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)