jayaprakasamalla (人名)

中世後期、三都マッラ王朝時代、カトマンズマッラ王朝の最後の王。在位第一期1736〜46年。第二期1750〜68年。

父王ジャガッジャヤ王が没すると嫡子ジャヤプラカーシャ・マッラ王が弟ラージャプラカーシャの支持を得て即位したが、王の粗暴な性格を嫌った一部の重臣が、もう一人の弟ナレーンドラプラカーシャを擁して立ち上がり、デウパタン、チャング、サンク等を制圧して反王政府を樹立した。ジャヤプラカーシャ王はこれらの地域を奪還した。弟ナレーンドラプラカーシャはバクタプルにのがれて客死した。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)

ジャヤプラカーシャ王は弟ナレーンドラプラカーシャを追放したあと、自国の内紛を収拾できずにいた。一部の重臣が別の弟ラージャプラカーシャを擁して反逆するのを恐れた王は弟を追放し、ラージャプラカーシャはパタンに逃れた。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)

その後も自国の内紛を収拾できずにいたため、一部の重臣が別の弟ラージャプラカーシャを擁して反逆するのを恐れた王は弟を追放し、ラージャプラカーシャはパタンに逃れた。パタン王ヴィシュヌはラージャプラカーシャを手厚く庇護し、彼を王位継承者に指名した。ジャヤプラカーシャ王は当然それを快く思わず、パタンとの間に亀裂が生じた。それを知ったプリトビナラヤン王はバクタプル王ラナジットにカトマンズから領土を奪ったら与えると申し出、ラナジット王はそれを受け入れたのでカトマンズは孤立した。ゴルカとバクタプルに多くの領土を奪われたジャヤプラカーシャ王の威信は大きく傷ついた。勢いづいた反王派は1746年に王を追放し、幼い王子のジョーティプラカーシャ・マッラ王を即位させた。王位を奪われたジャヤプラカーシャ王はパタン、デウパタン、バクタプルと転々としたあと、反王派の内紛に乗じて1750年に復位した。復位後、領土を失ったため国の財政が悪化し、しかも王の失脚中に反王派によって国庫がほとんど略奪されていた。そこで王は軍事費調達のためにパシュパティ寺院を始め多くの寺院の塔頂、財宝を没収したばかりかチベット盗賊を使ってバクタプル、パタン領内の村々を略奪させた。このため民衆は王への不信を募らせた。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)

パタン王として迎えられ追放されるが再即位

1760年、パタン王ヴィシュヴァジット・マッラは自殺したのち、パタンの長老たちはカトマンズ王ジャヤプラカーシャ・マッラをパタンに迎えた。しかしジャヤプラカーシャ王は長老たちの意のままにならず、逆に王に恐怖を抱いた長老たちは1762年に王が沐浴のために郊外のテクに出向いた際にそのままカトマンズに追い返し、代わりにバクタプル王ラナジットをパタン王に迎えた。だが民意を重んじる王の政策に不同意の長老たちは翌1763年に、王がパタン郊外のシャンカムルに礼拝供養に出向いた際にそのまま追放して再びジャヤプラカーシャ・マッラ王をパタンに迎えた。。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)

ジャヤプラカーシャ王の積もり積もった怒りを鎮める必要があったため再度王に迎えたもののプリトビナラヤン王に経済封鎖されていたため長老集団はプリトビナラヤン王自身をパタン王として招く画策を始めていた。それを知ったジャヤプラカーシャ王は激怒し、口実を設けて六長老をカトマンズに呼び寄せるとそのまま投獄した。六長老の筆頭長老は自殺したが、王は他の五人の長老にぼろの女装を着せて辱め、パタンに送り返した。ジャヤプラカーシャ王の二度目のパタン王即位は六か月であった。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)

祭礼中の王宮陥落

1768年9月25日夜半、カトマンズ市民はこぞってインドラ・ジャータラの大祭に酔い痴れて眠りについた。 その虚を衝いてゴルカ軍はハヌマンドーカ王宮を襲った。カトマンズ軍はなすす術もなく敗走し、ジャヤプラカーシャ王は王宮を脱出してパタンに逃れ、王宮の王座にはプリトビナラヤン王が座った。カトマンズ市民のほとんどが眠りについていた間の出来事で、翌朝、市民が目覚めた時には全てが終わっていた。

パタンに逃れたジャヤプラカーシャ王は、長老たちがすでにゴルカに降伏する意向を固めていたことを知って、パタン王テージャナラシンハと共にバクタプルに逃れた。

1768年10月6日、パタンは無血でゴルカに降伏した。次の標的バクタプルを陥とすのは極めて難しいと考えたプリトビナラヤン王はバクタプル王ナラジット王に、二王を引き渡して降伏するよう求めた。ナラジット王は重臣や市民の同意を得て二王の庇護を決めて引き渡しを拒否した。バクタプルに庇護されたジャヤプラカーシャ王は、バクタプルの庶子たちが次の王権を狙っているのに乗じ、ゴルカ軍を打ち破ったあと彼らに王権を与えると約束し、また東インド会社の第二次援軍が来ると彼らを扇動し、高専気分を高めた。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)

1769年11月10日夜半にゴルカ軍がバクタプルを攻撃し、王宮内に突入し、激戦の末、12日朝、3人のマッラ王は身の安全のために別館に移り始めた。ジャヤプラカーシャ王は足に銃弾を受けた。戦況は一方的になり、バクタプル王はついに降伏し、3王とも捕えらえた。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)

プリトビナラヤン王は3王と会見してそれぞれの希望を聞いた。足に深手を負ったジャヤプラカーシャ王は死を覚悟し、「神の恩寵により余は長期間、王国を統治して王たる権威を享受した。数多くの記念碑も建てた。今やパシュパティのアーリヤ・ガート(王火葬場)に運ばれて解脱を得る以外に望みはない」と応え、希望通りパシュパティ寺院に送られて、日ならずして死去した。こうして連綿と続いた「マッラ王朝は消滅した。(出典:ネパール全史、佐伯和彦)


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2016-02-24 (水) 10:20:53 (428d)