jitarimalla (人名)

中世前期、三大勢力分立時代、カサ王国の王。在位1287年頃〜1290年頃。

マッラ姓を名乗ったジターリ王

プリトヴィー王統譜によると、アショーカ・チャッラ王の子であるが、チャッラ姓を名乗らずマッラ姓を名乗った。そしてこの王以降、カサ王たちはマッラ姓を名乗るようになった。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著)

プリトヴィー王統譜には父子継承はもちろん、全王、先王との続柄が必ず記されており、ジターリ王はアショーカ・チャッラ王の子と明記されている。彼は中央勢力のマッラ王族とは関わりがない。彼が侵攻した際のネパール王はアナンタ・マッラ王であり、マッラ王族の栄光と名声を知る機会となった。彼は自らの王威を高めるためにチャッラ姓と類似したマッラに改姓したと推測される。ネパール側の史料ゴーパーラ譜では、単にジャヤターリまたはジャヤターリーとのみ呼ばれており、後のカサ王のようにマッラ姓は付されていない。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著

三年間に三回のネパール侵攻

ジターリ王は1287年、89年、90年にそれぞれアナンタ・マッラ王統治下のカトマンズ盆地に侵攻した。第1回目の侵攻では、スワヤンブーの戦闘でカサ軍は800人を失った。民衆がすべて林塞に避難したためカサ軍は引き揚げた。第2回目の侵攻ではカサ軍は村々に火を放った後、スワヤンブー寺院、ブンガマティのラート・マチェンドラナート寺院、パシュパティ寺院に参拝した後自国に戻った。第3回目の侵攻では盆地北西のヌワコートを占拠したあと、ラート・マチェンドラなーと寺院に詣でて宝蔵を寄進した。パシュパティ寺院にも参拝したあと村に火を放った。そして一か月間パタンを包囲したが陥とすことはできなかった。三回の侵攻とも統治する意欲は見られず、短期の占拠、放火、掠奪ののち、代表的なヒンドゥー寺院、仏教寺院に参拝、寄進しており、寺院参拝も侵攻目的の一つであった。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著)

東方進出とネパール語圏の東進

当時までにカサ王国はカルナリ地方を中心に、北はプラーン、グゲまで、西はクマウンガルワールまで、南はタライ地方まで勢力を拡げていたが、インドでは奴隷王朝が衰退し、1290年にジャラールッディーンが奴隷王朝を倒してハルジー王朝(またはヒルジー)を建てるという王朝交代のはざまにあり、カサ王国への圧力も弱まった。そのためジターリ王は東方に関心を向けることができた。しかも当時、カトマンズ盆地の中心勢力でも従来のデーヴァ王族と新勢力のマッラ王族の覇権争いは激しく、、両王族による王位交代制が実施されるという不安定期にあり、ジターリ王にとって東方進出の好機であった。カサ軍のネパール侵攻の際、盆地の西方から侵入し、ヌワコート占拠さえ行い、しかもわずか3年間に3回も連続的に侵攻している。直接シンジャーからの3年連続の遠征は事実上不可能で、ガンダキ地方のかなり盆地に近い地域まで支配下に収めていたことはほぼ間違いない。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著)

このようにカサ王国の版図が東方に拡がるにつれて、多くのカサ族の東方移住が進み、シンジャーリー語(カス語=古ネパール語)も東方に拡がった。少なくとも古ネパール語がジターリ王軍とともにカトマンズ盆地に到達したことは事実であり、中央の人々も古ネパール語に触れる機会はあった。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著)


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Last-modified: 2015-04-13 (月) 13:34:17 (2195d)