sivasimhamalla (人名) 中世後期、三都マッラ王朝時代、カトマンズ・マッラ王朝の王。在位1580頃~〜1620。マヘーンドラ・マッラ王の次子。 マヘーンドラ王の死後、長子サダーシヴァ・マッラ王が即位したが、粗野で無分別な人物であった。飼っていた馬の群れを田地に放って稲を食べさせたり、祭礼の見物に来ていた美しい女性を捕らえて陵辱したり不行跡を重ねたので、民衆が弟シヴァシンハを擁して反乱を起こし、王を追放してシヴァシンハ・マッラ王が即位した。即位当初の一時期、弟のラナジットシンハと連立統治を組んでいた可能性もある。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著) この王は有能で強力な統治者であった。彼は先ずパタンに目を向けた。七家マハ・パートラが共同統治していたパタンを、反マッラ派のマハ・パートラ、ヴィシュヌ・シンハが手中に収めてカトマンズから独立させたあと、二代目プランダラ・シンハが統治していた。シヴァシンハ王は1604年にはすでにこのプランダラ・シンハを討ってパタンをカトマンズに併合しており、王の代理として王子ハリハラシンハ・マッラにパタンを統治させた。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著) 次いで1610年から1611年にかけてドラカを支配下に収めた。さらに王は、北方はチベットとの国境を越えてケルン(キーロン)まで制圧し、南方はマクワンプル、東方はシンドゥリ、西方はガンダキ河を超えた地域まで王権を弘めたという記録が遺されていた。またモランのセーナ王国にも影響力を持っていた。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著) シヴァシンハ王は国土拡大のための戦闘に明け暮れていたが、若干の寺院の造営、再建、修理を行っている。1595年に王命によりスワヤンブー仏塔が再建されたが、落雷のため破損したので、1605年に再度立て直させた。またハヌマンドーカ王宮に、タレージュ寺院に次ぐ高塔のデグタレージュ寺院を建立したほか、チャングナラヤン寺院の再建、王妃によるパシュパティ寺院の修復が行われた。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著) 強大だったシヴァシンハ王の王権にも晩年期には翳りが見えていた。パタンを統治させていた皇太子ハリハラシンハは王の存命中に死去し、皇太子の長子のラクシュミーナラシンハは王とともにヘンマンドーカ王宮にあり、次子シッディナラシンハは母とともにパタンにとどまっていた。パタンの重臣たちは、王の衰えに乗じて、12歳のシッディナラシンハを擁してパタンの独立を果たし、1619年にはシッディナラシンハがパタン王国最初の王となっていた。弟が先に王となったことに不満を抱いたラクシュミーナラシンハが王宮を離れて抗議すると、王は彼をカトマンズ王に即けるために呼び戻したが、1620年に王は死去した。シヴァシンハ王は自ら併合したパタンを晩年に手放すことになった。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著) |