arjunadeva (人名) 中世前期、前期マッラ王朝時代の王。在位1361年〜1382年。1382年死去。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著) ラージャ・デーヴァ王の子。 強大な勢力を誇っていたマハータのアネーカ・ラーマの死後、彼の子ジャヤシンハ・ラーマがマハータを継承して絶大な権勢を保ち、彼の後見によってアルジュナ・デーヴァ王の戴冠式が実現した。 王宮の実権者デーヴァラデーヴィーの後ろ盾を得て勢力を伸ばしてきたスティティ・マッラはゴーパーラ譜に「二人の王」とまで記される連立統治者にのし上がり、さらに「 スティティ・マッラの治世に」とも記されて、事実上の王となった。この時点で20歳だったアルジュナ・デーヴァ王はスティティ・マッラの側近の指導のもとでパタンを統治するにすぎず、その立場も危うかったことを示唆する史料さえある。連立統治の実態は、ネパール王国全体をスティティ・マッラが首都バクタプルにあって統治し、その統治下でアルジュナ・デーヴァ王が辛うじてパタンを治めるという構図であった。 1368年、アルジュナ・デーヴァ王は後見役のマハータ、ジャヤシンハ・ラーマと組んでスティティ・マッラに対抗し、いったんは王権の中枢バクタプルへの入城を果たすが、事破れて逃亡した。その後、スティティ・マッラと和解し、王としての体面は辛うじて保った。 1380年、皇太子を名乗るに至ったスティティ・マッラは、マハータの一人ジャヤタを始めとする主要な廷臣の同意を得て、名のみの王アルジュナ・デーヴァ王を大行列とともにバネパ塞に送り込み、事実上軟禁した。アルジュナ・デーヴァ王は22日後に塞を脱出してゴカルナに逃れ、困難の末にバクタプルに立ち戻った。 1382年、王は失意のうちに死去したが、最後まで王の称号は保たれた。(出典:ネパール全史、佐伯和彦著) |